内村鑑三の言葉

無教会主義や内村鑑三、キリスト教について

内村鑑三 「今日という今日」

内村鑑三 「今日という今日」

昭和四年九月十日『聖書之研究』第三百五十号

 

○ 英語にウド・ハブ・ビンという詞(ことば)がある。「あったならば」との意(こと)である。こうあったならば、さぞ幸福であったろうと言いて、過去を顧み、現在を歎(かこ)つ心の態度である。あああって欲しかった、こうあって欲しかったと言いて、過去の瞑想に耽るを言う。

しかし、これまた空の空であって、愚の極みである。人生はあったならばでない、あるである。WOULD HAVE BEENでない、ISである。そして、ISは夢でない、瞑想でない、事実である。

そして、神は事実の神にましまして、事実をもって我らを助け給う。今在るこの状態、これが自分にとり最善の状態である。この状態に善処して、自分は神が自分のために備え給いし最善に達することができるのである。

祝福されたる現状、そのつらきも、苦しきも、悲しきも、痛きも、すべてが天国に達する道である。ここを出発点として、現在という堅き岩の上に踏ん張りて、もし残るは最後の一日なりといえども、神を信じて勇ましく行いて、我が前に天国の門の扉は開くのである。

キリスト信者に不似合いのものとて、回顧のごときはない。「後にあるものを忘れ、前に在るものを望み」である。今日という今日が、成功の生涯の首途(かどで)である。