内村鑑三の言葉

無教会主義や内村鑑三、キリスト教について

2016-04-01から1ヶ月間の記事一覧

内村鑑三 「信仰の共同的維持」

内村鑑三 「信仰の共同的維持」 (大正六年 九月十日 『聖書之研究』第二百六号) 信仰は単独(ひとり)で維持することのできるものではない。その理由(わけ)は、信仰は自分一人のことでないからである。 信仰は神を信ずることである。しかして、神は万人…

内村鑑三 「不断の努力」

内村鑑三 「不断の努力」 (大正六年 九月十日 『聖書之研究』第二百六号) 必ずしも大著述をなすに及ばない。小著述にて足る。我はわが見し真理を、明瞭簡単なる文字に綴りて、これを世に示すべきである。 必ずしも大事をなすに及ばない。小事にて充分であ…

内村鑑三 「古き福音」

内村鑑三 「古き福音」 (大正六年 十月十日 『聖書之研究』第二百七号) キリストはわがために、我に代りて死にたまえり。 神は彼に在りてわが罪を赦したまえり。 しこうして、わが救われし証拠として、彼は彼(キリスト)を甦らしたまえりと。 これ、新約聖…

内村鑑三 「トンネルを過ぎて」

内村鑑三 「トンネルを過ぎて」 (大正六年五月十日 『聖書之研究』第二百二号) 久しぶりにて甲信の地に遊び、笹子(ささご)・小仏(こぼとけ)等の大トンネルを通過して、死について思うところがあった。 すなわち、死は汽車に乗じてトンネルを過ぎるがご…

内村鑑三 「文字の排斥」

内村鑑三 「文字の排斥」 (大正六年五月十日 『聖書之研究』第二百二号) 今や宗教といえば、哲学というがごとく、思想である。しこうして、思想は文字である。文字は書籍である。ゆえに、修養は主に書を読むことである。伝道は主に書を作ることである。真…

内村鑑三 「患難の配布」

内村鑑三 「患難の配布」 (大正六年九月十日 『聖書之研究』第二百六号) 人々に臨む患難は種々様々である。しこうして各自に臨む患難は、その人にとり必要欠くべからざる患難である。彼を潔め、彼を錬(きた)え、彼をして神の前に立ちて完全なる者と成ら…

内村鑑三 「活ける神の要求」

内村鑑三 「活ける神の要求」 (大正六年九月十日 『聖書之研究』第二百六号) イスラエルの詩人はいうた、「わが霊魂(たましい)は渇けるごとくに神を慕う、活ける神をぞ慕う」と(詩篇 四二篇二節)。 我はわが生命の中心において、飢え渇くがごとくに神…

内村鑑三 「天然と神」

内村鑑三 「天然と神」 (大正九年 十二月十日 聖書之研究第二百四十五号) 太陽は神ではない。しかしながら、神は太陽をもって我らを照らし給いつつある。 水は神ではない。しかしながら、神は水をもって我らの汚穢(けがれ)を洗い給いつつある。 火は神で…