内村鑑三の言葉

無教会主義や内村鑑三、キリスト教について

内村鑑三 「三種の宗教」

内村鑑三 「三種の宗教」

(昭和五年二月十日 「聖書の研究」第三百五十五号)

 

○ 宗教に儀式的なると、倫理的なると、信仰的なるとの三種類がある。儀式的なるが最も低く、倫理的なるがその上であって、信仰的なるが最も高くある。

そして、儀式的が普通であるがゆえに、倫理的なるが最も高くあると思わるるが常である。今日のキリスト教学者が、キリスト教は倫理的宗教なりと唱えて、その優秀の宗教なるを主張するがその一例である。

しかしながら、倫理的なるが儀式的なるより高きがごとくに、信仰的なるは倫理的なるより高くある。キリスト教は最高道徳でない。贖罪教である。キリストにありて神が人類の罪を滅したまえる、その事実を示せる宗教である。

「汝ら我に倣え、しからば救われん」という宗教にあらず、「汝ら我を仰ぎみよ。しからば救われん」と教うる宗教である。信仰第一の宗教である。道徳はその次である。

ゆえに、キリスト教にありては、倫理的なるは堕落である。キリスト教が盛んなる時は、信仰的に盛んなる時である。

そして、それが倫理的に盛んなる時もまた、信仰的に盛んなる時である。キリスト教が倫理を目的とする時に信仰は衰え、倫理もまた衰えるのである。

 

○ 現代人の好むものは二つある、その一が芸術であって、その他のものが倫理である。

そして、キリスト教にありて、芸術を好む者はローマカトリック教に行き、倫理を愛する者はプロテスタント教に行く。カトリック教は芸術的崇拝であって、プロテスタント教は倫理的願望である。

しかれども、福音すなわち真のキリスト教は、キリストと彼が十字架に釘づけられしことである。キリスト信者の全部は、キリストと彼の十字架においてある。

彼の礼拝も道徳も、すべてここに完成(まっとう)されたのである。

ただキリスト、ただ十字架である。

そして、ただこれを信ずることである。現代人はその単純なるに堪えない。倫理学者はこれを迷信と同視する。

しかれども、信ずる者には、これ神の智慧また能力たるなりである。

 

○ 人がみずから神を求むる時に、彼は芸術的にまたは倫理的に彼に近づかんとする。

しかれども、神が人を求めたもう時に、人は信仰をもって神に到るより他に道がない。信仰は神が備えたまいし救いの道に己れを信(まか)すことである。

信仰に手段方法は何もない。ただ信ずである。信仰は美くしき儀式でもなければ、麗しき思想でもない。

自己の罪に目覚め、神の恩恵に牽(ひ)かれて、「起てわが父に往かん」といいて、彼の懐へと帰り往くことである。

神の恩恵に応ずる人の信仰、それが真のキリスト教である。

 

○ 病床中の主筆いう、今度私が死んだとして、私は私の絶筆としてこの端文を遺して恥としない。私が生き存(のこ)るならばこの信仰を繰り返すまでである。