内村鑑三の言葉

無教会主義や内村鑑三、キリスト教について

内村鑑三 「神の言(ことば)としての聖書」

内村鑑三 「神の言(ことば)としての聖書」

(大正十二年六月十日 『聖書之研究』第二百七十五号)

 

聖書は神の言(ことば)である。私はそのことを疑わない。しかしながら、いかなる意味において神のことばであるか。そのことを説明するの必要がある。

聖書のうちに神のことばでないらしき者が少なくない。例えば、創世記十九章三十節以下三十八節までのごとき(※ロトの話)、これを前後の関係より離して見て、その神の言でないことは何人が見ても明らかである。これを神のことばと解していかなる非倫をも行うを得べく、また聖書は神のことばにあらずとの立論の基礎ともなすことができる。聖書のうちよりある章節を集めて、最も不道徳なる一書を作ることができる。ことばあり、いわく、「聖書のことばを引用していかなる説をも立証するを得べし」と。聖書が神のことばたる理由は、その個々に独立したることばにおいてないことは明らかである。

聖書が神のことばたる理由は、その全体の主意、精神、目的においてある。神が世を救わんとて取りたまいし手段方法、しこうしてこれによって顕われし神の御心、そのことを明らかに示すものが聖書である。ゆえに聖書全体を知らずして、その確かに神のことばであることはわからない。

同じことが天然についても言われるのである。天然は神の御わざであることを我らは疑わない。しかれども、天然物をひとつひとつにしらべ見て、愛の神の作として受け取り難いものがあまたある。天然物のうちよりすべて醜きもの、すべて恐ろしきものを集めて、うるわしき神の宇宙ならで、嫌うべき悪魔の世界を画くことができる。しかるにもかかわらず、我らは天然全体の、智慧に富みたもう神の御わざなることを信じて疑わないのである。

聖書は神のことばなりと言うはやすくある。しかれども、覚るは難くある。しこうして、研磨鍛錬の結果、神に悟道(さとり)の眼を開かれて、そのまことに神のことばたるを知るに至るや、その歓び言い難しである。

これは盲目的に、ある人の権威に服して唱うる主義主張ではない。道理をもって証明せらるる事実の上に立つ確信である。聖書の完全は、宇宙の完全と等しく、深き考究を要する問題である。完全は不完全をもって顕わる。また、完全に達する道として、不完全は完全である。天然も聖書もこのことを語る。