内村鑑三の言葉

無教会主義や内村鑑三、キリスト教について

内村鑑三 「文化の基礎」

内村鑑三 「文化の基礎」

(大正十四年一月一日 『文化の基礎』五巻一号)

 

○ 文化の基礎は何であるか。政治であるか、経済であるか、文学であるか、芸術であるか。そうでないと思う。これらは文化の諸方面であって、その基礎でない。文化の基礎は文化を生むものでなくてはならぬ。樹があって果があるのである。文化は果であってこれを結ぶ樹ではない。

 

○ 文化の基礎は宗教である。宗教は見えざる神に対する人の霊魂の態度である。そして人の為すすべてのことはこの態度によって定まるのである。ギリシア人の神の見方によってギリシア文明が起ったのである。キリスト教の信仰があってキリスト教文明が生れたのである。その他エジプト文明、バビロン文明、ペルシヤ文明、インド文明、支那文明、日本文明、一として然らざるはなし。深い強い宗教の無い所に大文化の起った例はない。無神論と物質主義は、何を作り得ても、文明だけは産じ得ない。

 

○ 薩長藩閥政府の政治家等によって築かれし明治大正の日本文明なるものは、宗教の基礎の上に立たざるがゆえに、文明と称すべからざる文明である。これはいつ壊(くず)るるか知れざる、砂の上に立てられたる家のごとき、危険極まる文明である。永久性を有せざる日本今日の文明は、潰倒に瀕している。土台を据えずして建てたる家である。今にして土台を据えなければならぬのである。困難はここにある。いわゆる維新の元老は自身無宗教の人等でありしがゆえに、信仰の基礎の上に新社会をつくりえなかったのである。

内村鑑三 『仏陀とキリスト』

内村鑑三仏陀とキリスト』
(大正十五年四月五日)
The Japan Christian Intelligencer. Vol. I, No. 2.

仏陀は月である。キリストは太陽である。
仏陀は母である。キリストは父である。
仏陀は慈悲である。キリストは義である。
仏陀は自らを汚れなく清く保つために山に逃れた。キリストは信仰の闘いを戦うために世の中に出発していった。
仏陀は世の中の罪の数々を悲しんだ。キリストは間違っているものを正すために闘った。
私は仏陀を愛するし、感嘆する。しかし、私はキリストを崇める―ロザリオや祈祷書をもってではなく、キリストが自らの崇拝者に求めた、勇ましい行いをもって―。
「神、二つの巨(おおい)なる光を造り、大なる光に昼を司どらしめ、小さき光に夜を司どらしめたもう。」(創世記 第一章 十六節)
私は月の光を愛する。また、夜を愛する。しかし、夜は更け、昼は近づいた。私は今や、月を愛する以上に、太陽を愛する。そして、月への愛は、太陽への愛の中に含まれていることを知る。また、太陽を愛する者は、月を愛することも知る。
(原文は英文。拙訳。(全集収録分は英文のみで和訳なし))

 


BUDDHA AND CHRIST (by UCHIMURA Kanzo)
Apr.5,1926
The Japan Christian Intelligencer. Vol. I, No. 2.

Buddha is the Moon; Christ is the Sun.
Buddha is the Mother; Christ is the Father.
Buddha is Mercy: Christ is Righteousness.
Buddha retires to the mountain to keep himself spotless and pure; Christ goes forth to the world to fight the battles of faith.
Buddha weeps for the sins of the world; Christ fights to redress the wrong.
I love and admire Buddha; but I worship Christ,― worship Him not with rosaries and prayerbooks,
but with heroic deeds He claims from His worshippers.
“God made two great lights; the greater light to rule the day, and the lesser light to rule the
night.” ― Genesis 1: 16.
I love the moon and I love the night; but as the night is far spent and the day is at hand,
I now love the Sun more than I love the Moon; and I know that the love of the Moon is
included in the love of the Sun, and that he who loves the Sun loves the Moon also.

内村鑑三 「何人をも真似ず」

内村鑑三 「何人をも真似ず」

(大正十四年一月十日 『聖書之研究』第二百九十四号)

 

私は何人をも真似ない。アウガスチンをも、ルーテルをも、ノックスをも、ウェスレーをもムーデーをも、その他、過去現在の何人をも真似ない。

私は私自身である。神は私を特別の目的をもって造り、私を特別の位地に置き、私に特別の仕事をあてがいたもうた。私は神の特別の器であるがゆえに、彼は私を特別の道に導きたもう。

それゆえに、私を欧州人または米国人中のこの人、またはかの人に較(くら)ぶる者は、私を誤表し、また私に関わる神の御計画を誤解する者である。

神は同一に二人の人を造り給わない。人は各自、神の特別の聖手(みて)の業(わざ)である。

私は神に特別に造られたる者であるがゆえに、自由独立の人である。私は、日に日に彼の特別の指導にあずからんとて、彼の聖顔(みかお)を仰ぎまつる。

彼が私のために特別に鑿(きり)開き給いし道に、私をして歩ましめ給わんとて、私を導きたもうその聖手(みて)に、私は縋(すが)りまつる。

私は単独である。しかし、単独でない。神が私と偕(とも)に歩んで下さるからである。

 

 

内村鑑三 「私の愛国心について」

内村鑑三 「私の愛国心について」
(大正十五年一月十日 『聖書之研究』第三百六号)

○ 私に愛国心があると思う。私は幾たびも思うた、日本人にして愛国心のない者はない、私がもっているだけの愛国心は日本人たる者は誰でももっていると。
しかるに、事実は私のこの想像を裏切った。私は今日までに、私がもっているだけの愛国心をもたない日本人にたくさんに会うた。ことに、教育ある日本人にして、その官立学校に学び、卒業して後に官禄によって生活する人等にして、日本国を思うこといたって薄く、その利益と幸福とのことについて謀るも、応ぜざる者をたくさんに見た。
私は今日に至って、私は日本人中、決して愛国心の不足する者でないことを発見した。しかり、ある時は、日本人中に私だけ日本を愛する者の他にあるやを疑わせらるることがある。


○ 私は青年時代において、常に私の外国の友人に告げていうた。私に愛する二個のJがある。その一はイエス(Jesus)であって、その他のものは日本(Japan)であると。
イエスと日本とを較(くら)べてみて、私はいずれをより多く愛するか、私にはわからない。その内の一を欠けば、私には生きている甲斐がなくなる。私の一生は、二者に仕えんとの熱心に励まされて、今日に至ったものである。
私は何故にしかるかを知らない。日本は決してイエスが私を愛してくれたように愛してくれなかった。それにかかわらず、私は今なお日本を愛する。止むに止まれぬ愛とはこの愛であろう。


○ 私が日本を愛する愛は、普通この国に行わるる国を愛する愛ではない。私の愛国心軍国主義をもって現われない。
いわゆる国利民福は、多くの場合において、私の愛国の心に訴えない。日本を世界第一の国と成さんと欲するのが私の祈願であるが、しかしながら、武力をもって世界を統御し、金力をもってこれを支配せんと欲するがごとき祈願は、私の心に起らない。
私は日本を正義において世界第一の国となさんと欲する。「義は国を高くし、罪は民を辱(はず)かしむ」とあるがごとくに、私は日本が義をもって起(た)ち、義をもって世界を率いんことを欲する。
かくのごとくにして、私の愛国心は、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、イエス、パウロ、ダンテ、ミルトン等によって養われた愛国心である。今日の日本にありふれた愛国心ではないが、しかし最も高い、また最も強い愛国心であると思う。
日本のために日本を愛するにあらずして、義のために日本を愛するのであると言うならば、多くの日本人は怒り、あるいは笑うであろう。しかしながら、この愛国心のみが、永久に国を益し、世界を益する愛国心であると信ずる。私は愛国的行為として、伝道に従事する。私はミルトンが英国を救わんと欲したような心持をもって、日本を救わんと欲する。

内村鑑三 「信仰の共同的維持」

内村鑑三 「信仰の共同的維持」

(大正六年 九月十日 『聖書之研究』第二百六号)

 

信仰は単独(ひとり)で維持することのできるものではない。その理由(わけ)は、信仰は自分一人のことでないからである。

信仰は神を信ずることである。しかして、神は万人の父である。ゆえに、彼を信じて彼に従いて、万人を愛せざるを得ないのである。

実(まこと)に、信仰を単独で維持するは、愛を単独で維持するがごとくに困難である。愛する相手が無くして愛は成立しない。そのごとく、信仰を行う目的物が無くして、信仰はこれを持続することができないのである。

実(まこと)に、信仰は愛の半面である。ゆえに、単独で在り得るものでない。神を信ずるというその事それ自身が、すでに共同親交の意味を通ずるのである。

 

世にもちろん単独で維持することのできる信仰が無いではない。単純なる哲学的または数学的真理に対する信仰は、これを単独で維持することができる。二に二を合すれば四なりとの真理は、単独で永久にこれを信ずることができる。

しかれども、道徳的または宗教的真理に対する信仰は、全然それと質(たち)が違うのである。神は愛なりと信じて、我は単独でその信仰を楽しむことはできない。愛は己れの利を求めざるなり、人の益を図るなりである。

神の愛なるを信じて我もまた彼に倣いて愛せざるを得ない。しこうして、愛はこれを施すに人を要するのである。

愛はこれを物に施して足りない。愛はこれを己れの如き人に施して始めて満足する。ここにおいてか、神を信ずるの信仰は、これを維持するに神の子供なる人を要するのである。我はわが信仰維持の必要に駆られて、我と情性を同じうする人を需(もと)むるのである。

 

かく言いて、余輩は「ゆえに、信者たる者は、その教籍を現在のある教会に置かざるべからず」とは言わない。現在の教会の多数は愛の団体ではない。野心の団合である。彼らは、政党が政権を己れが手に握らんと欲するがごとくに、教権を広く世に張らんとする。教会は、キリストの聖名(みな)を唱うるのほか、その精神においてこの世の政党と何の異なるところはない。

そのことは、彼らが憚らずして為すところを見て明らかである。彼らは、互いに相中傷する、排斥する、陥擠(※かんせい、人を罪におとし入れること)する。その教敵とあれば、これを追窮せざればやまない。多くの佞人と奸物とはその内に跋扈する。最も醜悪なる競争はその中に行われる。

しこうして、かかる団合の中に入りて、真の信仰は破壊せられざるを得ない。世に真信仰の稀なるところとて、現在(いま)の教会のごときは無いのである。

ゆえに、キリスト教国いたるところにおいて、多くの信仰に燃えたる信者、愛に熱したるキリスト者(クリスチャン)は、教会を去りて他に愛と信仰との活動を求むるのである。

 

しかしながら、言うまでもなく、教会とは元来かかるものではなかった。教会をkirche またはchurch と称うは、kuriakonすなわち「主の家」の意である。

すなわち、教会は元来キリストの家庭である。彼を家長として戴いたる、彼に贖われし者の愛の団欒である。世に楽しきものとて、実はクリヤコンすなわち主の家のごときは無いはずである。これはまことに地上の天国である。真信仰の活動地である。相互に愛して愛せられ、しこうしてまた、相共に父なる神に愛せられて彼を愛したてまつるところである。

 

聖詩人の歌いしがごとく、

 

視よ、兄弟相睦みて共に居るは

いかに善く、いかに楽しきかな、

首に濺(そそ)がれたる貴き香油、鬚に流れ、

アロンの鬚に流れて、その衣の裾に及ぶがごとく、

また、ヘルモンの露降りて

シオンの山に流がるるがごとし、

エホバは彼所(かしこ)に福祉(さいわい)をくだし、

窮(きわみ)なき生命を与え給う、

 

とのことを事実として実験することのできるところである(詩篇 百三十三)。

しこうして、かかるところは求めて得られざるにあらずである。信仰の兄弟姉妹相集まるところに、かかる聖所は実現するのである。

その所に上下智愚の差別は全然無いのである。その中にただ主イエス・キリストを崇むるの信仰があるのみである。しかして、兄弟相愛し相援けて、我らは我らの信仰のいちじるしく昇騰するを覚ゆるのである。万巻の書を読破しても得られざる大光明のわが胸裡に臨むを実験するのである。

聖霊は特別に信者が愛をもって集まるところに臨むのである。かかる場合における彼らの祈祷は、特別に聴かるるのである。今夏の家庭団欒会のごとき、その一例であったと思う。

内村鑑三 「不断の努力」

内村鑑三 「不断の努力」

(大正六年 九月十日 『聖書之研究』第二百六号)

 

 必ずしも大著述をなすに及ばない。小著述にて足る。我はわが見し真理を、明瞭簡単なる文字に綴りて、これを世に示すべきである。

必ずしも大事をなすに及ばない。小事にて充分である。我は神に遣(おく)られて世に来りし以上は、彼の造り給いしこの地球を少しなりとも美(よ)くなして、天父の許(もと)へと還り往くべきである。

 

必ずしも完全なるを要せず、不完全なるもまた可なりである。

我は毎日毎時、わがなしうる最善(ベスト)をなして、患難(なやみ)多きこの世に、少しなりとも慰藉(なぐさめ)と歓喜(よろこび)とを供すべきである。

 

「汝、己れのために大事を求むるなかれ」と預言者エレミヤ、その弟子バルクに訓(おし)えていうた(エレミヤ記 四十五章五節)。

 

大事のみをなさんと欲する者は、ついに何事をもなさず。完全のみを求むる者は、何の得るところなくしておわる。何事をもなさざるは、悪事をなすのである。

実に偉大なるの一面は、小事に勤(いそし)むことである。完全なるの半面は、不完全に堪うることである。

大なれ小なれ、完全なれ不完全なれ、我が手に堪(た)うることは、力を尽くして、これをなすべきである(伝道の書 九章十節)。

 

 

内村鑑三 「古き福音」

内村鑑三 「古き福音」

(大正六年 十月十日 『聖書之研究』第二百七号)

 

キリストはわがために、我に代りて死にたまえり。

神は彼に在りてわが罪を赦したまえり。

しこうして、わが救われし証拠として、彼は彼(キリスト)を甦らしたまえりと。

これ、新約聖書の明白に示すところであって、福音の真髄である。

我はキリストに真似て聖徒となるのではない。我は努力して我が救済を獲得するのではない。我は神に縋(すが)りてわが救済を哀求するのではない。

わが受くべき罰はすでに受けられ、わが科(とが)はすでに赦され、わが死はすでに取り除かれて、永生はすでにわがために備えられたのである。

他力仏教の言(ことば)をもっていうならば、

「願行は菩薩のところにはげみて、感果はわれらがところに成ず」るのである(安心決定)。

これ、天然の法則にもとりて、愛の奇跡である。われらは、すでに贖われたる世界に在るのである。

しこうして、信ずればその時、その贖い、その救いをわが有(もの)となすことができるのである。パウロ、ルーテル、親鸞等をして起(た)たしめしものは、この簡単にして深遠なる真理である。

「キリスト、わが罪のためにわたされ、また、わが義となられしがために甦えらされたり」とある。