内村鑑三の言葉

無教会主義や内村鑑三、キリスト教について

内村鑑三 「私の愛国心について」

内村鑑三 「私の愛国心について」
(大正十五年一月十日 『聖書之研究』第三百六号)

○ 私に愛国心があると思う。私は幾たびも思うた、日本人にして愛国心のない者はない、私がもっているだけの愛国心は日本人たる者は誰でももっていると。
しかるに、事実は私のこの想像を裏切った。私は今日までに、私がもっているだけの愛国心をもたない日本人にたくさんに会うた。ことに、教育ある日本人にして、その官立学校に学び、卒業して後に官禄によって生活する人等にして、日本国を思うこといたって薄く、その利益と幸福とのことについて謀るも、応ぜざる者をたくさんに見た。
私は今日に至って、私は日本人中、決して愛国心の不足する者でないことを発見した。しかり、ある時は、日本人中に私だけ日本を愛する者の他にあるやを疑わせらるることがある。


○ 私は青年時代において、常に私の外国の友人に告げていうた。私に愛する二個のJがある。その一はイエス(Jesus)であって、その他のものは日本(Japan)であると。
イエスと日本とを較(くら)べてみて、私はいずれをより多く愛するか、私にはわからない。その内の一を欠けば、私には生きている甲斐がなくなる。私の一生は、二者に仕えんとの熱心に励まされて、今日に至ったものである。
私は何故にしかるかを知らない。日本は決してイエスが私を愛してくれたように愛してくれなかった。それにかかわらず、私は今なお日本を愛する。止むに止まれぬ愛とはこの愛であろう。


○ 私が日本を愛する愛は、普通この国に行わるる国を愛する愛ではない。私の愛国心軍国主義をもって現われない。
いわゆる国利民福は、多くの場合において、私の愛国の心に訴えない。日本を世界第一の国と成さんと欲するのが私の祈願であるが、しかしながら、武力をもって世界を統御し、金力をもってこれを支配せんと欲するがごとき祈願は、私の心に起らない。
私は日本を正義において世界第一の国となさんと欲する。「義は国を高くし、罪は民を辱(はず)かしむ」とあるがごとくに、私は日本が義をもって起(た)ち、義をもって世界を率いんことを欲する。
かくのごとくにして、私の愛国心は、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、イエス、パウロ、ダンテ、ミルトン等によって養われた愛国心である。今日の日本にありふれた愛国心ではないが、しかし最も高い、また最も強い愛国心であると思う。
日本のために日本を愛するにあらずして、義のために日本を愛するのであると言うならば、多くの日本人は怒り、あるいは笑うであろう。しかしながら、この愛国心のみが、永久に国を益し、世界を益する愛国心であると信ずる。私は愛国的行為として、伝道に従事する。私はミルトンが英国を救わんと欲したような心持をもって、日本を救わんと欲する。