内村鑑三の言葉

無教会主義や内村鑑三、キリスト教について

内村鑑三 「活ける神の要求」

内村鑑三 「活ける神の要求」

(大正六年九月十日 『聖書之研究』第二百六号)

 

イスラエルの詩人はいうた、「わが霊魂(たましい)は渇けるごとくに神を慕う、活ける神をぞ慕う」と(詩篇 四二篇二節)。

我はわが生命の中心において、飢え渇くがごとくに神を慕う、活ける神をぞ慕うと。

実にわが慕うところのものは、宇宙の真理ではない。人生の理想ではない。完全なる哲学ではない。崇高なる神学ではない。神である。活ける神である。

愛をもって我を励まし、能をもって我を助け得る神である。イサクがその父アブラハムに対せしがごとくに「父よ」と呼びかくれば答えて、「子よ我れここにあり」といいたまう活ける父なる神である(創世記 二十二章七節)。

 我は哲学的真理に厭き果てた。聖書の文字的解釈に倦み疲れた。我は、神を慕う。活ける神をぞ慕う。

しこうして、感謝す。かかる神のいましたもうことを。しこうして、また、彼の我が叫号(さけび)の声を聴きたもうことを。

今や人は人の敵であり、キリスト教世界は二箇の陣営に分かれ、一は他の殲滅を計りつつある。かかる時に際して「人の援助は空し」である(詩篇 六十篇十)。帝王も法王も、政府も教会も頼むに足らず。ひたすらに活ける神をぞ慕う。