内村鑑三の言葉

無教会主義や内村鑑三、キリスト教について

内村鑑三 「天然と神」

内村鑑三 「天然と神」

大正九年 十二月十日 聖書之研究第二百四十五号)

 

太陽は神ではない。しかしながら、神は太陽をもって我らを照らし給いつつある。

水は神ではない。しかしながら、神は水をもって我らの汚穢(けがれ)を洗い給いつつある。

火は神ではない。しかしながら、神は火をもって我らの不潔を焼き尽し給いつつある。

天然は神ではない。しかしながら、神は天然をもって我らを支え、我らを養い、我らを護り、我らを教え導き給いつつある。

かくして、我らは天然に接し、天然の内に生存して、神に接し、神の御懐(おんふところ)の内に生存しつつあるのである。

まことに我らは我らの日常の生活において、「彼に頼りて生きまた動きまた在ることを得る」のである(行伝 十七章二八節)。

我らは天然に囲繞せられて地上に存在すればとて、神と離れて在るのではない。神がモーセに言い給いしが如くに、我らが立つこのところは聖きところである(出エジプト三章五)。

我らは、地の上に住みて、神の聖殿にいるのである。信仰の眼をもって見れば、地そのものが神の造り営めるところの基(もとい)ある京城(みやこ)である。

その意味において我らは千年期の到来をまつに及ばない。新らしきエルサレムの天より降り来るを望むに及ばない。今時(いま)、この地の上に在りてすでに業(すで)に神の京城(みやこ)に在るのである。

地をして天たらしめざるものは地ではない。我らのうちに宿る罪である。

罪を除かれて地そのものがすでに天である。花の野に咲くは神の微笑(えみ)である、露の朝日に輝くは、父の顔(かんばせ)である。風の枝を払うは、彼のささやきである。日毎の糧は彼の肉である。したたる果汁(しる)は彼の血である。

エホバはその聖殿に在(いま)したもう。しこうして、我らもまた彼につかえて、聖殿に在りて彼に仕えまつるのである。