内村鑑三の言葉

無教会主義や内村鑑三、キリスト教について

内村鑑三 「断片録」

内村鑑三 「断片録」

(昭和五年四月二十五日『聖書之研究』第三百五十七号)

 

「その一、いかにして世に勝つか」

 

○ 人はいかにして世に勝ち得るか。天然を真の意味において征服し得るか。その道について教うるものは、ヨハネ第一書五章四、五節である。

「すべて神によりて生まるる者は世に勝つ、我らをして世に勝たしむるものは我らが信なり。」

誰かよく世に勝たん、イエスを神の子と信ずる者にあらずや。

 

○ 神の子は世に勝つ。彼に与えられし新たなる能力によりて勝つ。これを名づけて信と称す。信は信頼の心である。また、この心に応じて神が賜う能力である。神の子とせられし信者は、その信に応じて神が賜う信によりて世に勝つというのであると思う。

 

○ 信者すなわち神の子は、イエスを神の子と信ずる者である。イエスは神の子の模型であって、その内に初めて生れし者である。人は神の子にせられてイエスのごとくにせらるるのである。

イエスの御生涯は信者の生涯である。信者はイエスのごとくに苦しみ、しこうして後にイエスのごとくに栄光を着せらるるのである。イエスと共に十字架に釘づけられ、彼と共に死し、彼と共に復活し、彼と共に挙げられ、彼と共に再臨する。

すなわち、イエスが世に勝ちたまいしがごとくに信者は世に勝つ。世に勝たしめらる。イエスを神の子と信ずる者は世に勝つというはこのことであるという。

そして、天(あめ)が下にこの信、すなわちイエスを神の子と信ずる信をおいて、他に世に勝つの道はないのである。これは幾度となく試みられし信仰の磐(いわ)である。

世のいわゆる偉人または天才は、その偉大または才能をもって天然の一隅を征服し得しも、天然をその根本において征服し得なかった。彼らは外なる天然に勝ち得しも、内なる天然に勝ち得なかった。

すなわち、彼らは自己に勝ち得なかった。天然をその霊界との接触点において拉(ひし)ぎ得なかった。ゆえに、結極天然に負けてしまった。ゲーテ、ナポレオン、その他の天才英雄しからざるはなしである。

これに反して、イエスはその身を十字架に釘づけて肉と情とを滅し、天然をその前哨、実はその本塁に挫(くじ)いて、天然全体に勝ちたもうた。

 

 

「その二、猜疑の民」

 

○ たぶん、日本人ほど疑いっぽい民族は他にあるまい。彼らはたいていのことはその裏に解せんとする。しかも黒い裏に解せんとする。すべて白く見ゆる裏に必ず黒があると思う。ゆえに、彼らに正直を語るははなはだ危険である。正直は偽善か、しからざれば欺瞞に解せらるるからである。もちろん、猜疑は人類全体の悪習であるから、これをもって日本ばかりを責むることはできないが、しかし、日本人の猜疑心に特にはなはだしきものがあると思う。これはそもそも何に原因するのであろうか。

 

○ その第一は、たしかに戦国時代に養われし精神である。四隣皆敵なりし時に、人は相互を信ずるの危険を感ぜしは少しも不思議でない。織田は武田を疑い、武田は徳川を疑い、寸刻も油断はできなかったのである。数百年の間、この雰囲気のうちにありし日本人が今日のごとくに疑いっぽくなりしは、あえて怪しむに足りない。

 

○ その第二は、茶を飲料として用い来たりしことであると思う。茶と珈琲とが神経を鋭(とが)らせ、意志を薄弱ならしめ、その常習的使用者をして一種神経病患者たらしむることは、今や医学上より見て争い難き事実となった。日本人は白米の使用によって神経を弱らせ、さらに濃茶の使用によってこれを鋭らせて、今日のごとき過敏猜疑の民となったのであると思う。

もちろん、神を信じて霊魂を強健にするが第一であるが、しかし、これと同時に、戦国時代の弊風を去り、茶素の害毒を除くに努めねばならぬ。

いずれにしても我らはおよそ事疑うを廃(や)めて、およそ事信ずる民とならねばならぬ。

 

 

「その三、結婚問題の困難」

 

○ 人生の問題にして結婚ほど困難なるはない。しかしながら、もし一人の男より一人の女が出て、二人は生まるる前より既に定められたる夫婦であるならば、何故に結婚は今日我らが目撃するがごとき難問題であるか。

その理由は知るに難くない。人が生命の樹の果を食わずして、知識の樹の果を食うたからである。信仰によらずして己が判断によるに至ったからである。神を離れてみずから生きんとするからである。それゆえに己れに定められし男または女が己が隣に座するも、これを己が有として見分くる能わざるに至ったのである。

人が神の誡命に叛(そむ)き、信仰を棄て智慧によりし結果として、混乱は社会全体に起りしといえども、その最も甚しきは、家庭の基礎を壊(こぼ)ったのである。人はみずからその夫または妻を選んで、ここに家庭はその発端において乱されたのである。「神の定めたる夫婦」とは教会が承認した夫婦でない。神御自身が一体として男女に造り給いし者である。

しからば、今いかがせん。人は結婚の事においてのみならず、すべてのことにおいて罪を犯したのであれば、ここに悔い改めて、挽回を神に願わねばならぬ。神は信ずる者のためにすべてを善きに計り給う。同時に、人はその患難の理由を教えられ、覚らねばならぬ。

 

「その四、善悪共に善し」

 

○ 善いことはもちろん善いこと、悪いこともまた善いこと、神を信ずる者にとりては事として善からざるはなし。

神を信じて悪いことは善くなり、信ぜずして善いことも悪くなる。人生これを善くするも悪くするも、一に信不信によりて定まる。

それはそのはずである。宇宙人生、善なる神の御働きに外ならない。「神それ造り給えるすべての物を視たまいけるに甚だ善かりき」とあるがごとし(創世記一章三一節)。失敗、疾病死そのものも、神の御目にはすべて善いことである。そして信仰は自己を神の立場に置くことであれば、この立場に立ちて見て、物として善からざるはなしである。

(一九二九年十一月十六日)