内村鑑三の言葉

無教会主義や内村鑑三、キリスト教について

内村鑑三 「マリヤの選択」

内村鑑三 「マリヤの選択」

(昭和五年一月十五日 『独立教報』第二百四号(内村鑑三述・牧野正路記)

 

※ルカ伝第十章三十八節以下参照

 

ここに見るベタニヤの姉妹マリヤ、マルタの、主イエス接待の記事は、ひろく人口に膾炙された物語でありまして、何人もその意味のあまりに明瞭なるによって、これを簡単に片付け去るのであります。

もちろん、この問題たるや、いたって簡明なる事実の叙述たるは申すまでもありません。真心もてイエスを接待せる二婦人の性格に、明白なる相違を認めることができます。マルタは、いわゆる活動的奉仕婦人を代表する者でありまして、もっぱら努力奉仕して主イエスの御心を喜ばせんとし、これに反してマリヤは、静観的性格の所有者でありまして、ひたすら心をこめて主イエスの教えに傾聴せんとする型の婦人でありました。二者いずれも、大体において、その人間性のしからしむるところでありまして、一概にその性格の良否を決することはできません。

しかし、奇しくも、主イエスはひたすら奉仕活動をもって主を喜ばせんとするマルタよりも、心を空しくしてひとえに福音の真髄に接してその恵みに浴せんと志ざせるマリヤの心を、深く深く愛(め)でたまいました。

神の真理、福音の根本原理は、永久に不変であります。今日の宗教界を一瞥する時、そこに唱えられる主張は、多くマルタ系のものたるは疑うことができません。いわく、大挙伝道、社会奉仕、あるいは近代的教育の完備を尽し最良の環境を与え、もって人の霊性を救わんとの努力に全力を傾注し、まさに寧日なきありさまであります。

該博なる知識と、高尚なる教養と、完備せる体育設備をもって、はたして人の霊魂は救われましょうか。はたまた、我らはこれらをおいて、単純なる信仰のみを選ぶべきものでしょうか。これ、我らの最大問題であります。

無くてかなわぬものは唯一であります。

神のつかわしたまえるひとり子、イエス・キリストを信ずること。これは聖書が終始一貫する大真理でありまして、いかなる人、いかなる時代の経験も、これを裏書きいたして誤りません。

これを個人の一生涯についても、また社会教化の上において見るも、その核心となり根底を形成するは、この信仰であります。キリストを知り、彼の救いの恩沢に浴するは、人類最大の事業であります。

この信仰を得て、個人の更生も、社会の改造も、行わるるのであります。我らもマリヤに倣うて、まず第一にこの慧(かしこ)き選択をいたさねばなりませぬ。