内村鑑三の言葉

無教会主義や内村鑑三、キリスト教について

内村鑑三 「幸福の道」

内村鑑三 「幸福の道」

(昭和四年十月十日 『聖書之研究』第三百五十一号)

 

○ 幸福なるは至って容易である。心の中に人を愛すればよいのである。そうすればただちに幸福が得られる。

人に愛せらるることを待つに及ばない。愛せられざるに自分から進んで人を愛すれば、その時ただちに最大幸福が得らるるのである。

与うるは受くるよりも福(さいわ)いである。愛するは愛せらるるよりも楽しくある。イエスは十字架の上にて己れを死にわたせし者を愛して、人生最大の幸福を味わい給うたのである。身の不幸をかこちて人生をはかなむ者は、この簡易なる幸福獲得の道を学ぶべきである。

 

○ キリストに在りて神に愛せらるる時に、人は何人にも愛せられたくなくなる。ただ何人をも愛したくなる。倫理も道徳もあったものでない。そうなるから不思議である。

人を愛せんと欲して愛し得ず。人より愛を要求するも無益である。ただ「我を愛して、わがために己れを捨てし者、すなわち神の子」を仰ぎみる時に、愛は我が心に溢れて、我もまた我が主に倣いて人のために己れを捨てんとねがう。これを信仰の煉丹術と称せんか。これを思いて倫理学宗教哲学が馬鹿らしくなってしまう。愛するの道は信ずるにある。かくして愛するが一層簡易になる。

 

○ 私は未だかつてこの世に本当に幸福なる人を見たことはない。もしそういう人があるならば、その人は私自身であると思う。

私は位の高い人、富の多い人、智慧の優れたる人を見た。しかし、その人が幸福の人でないことを知った。私が見た人という人には皆、それぞれの苦悶があって、彼らはそれを去らんと欲して去ることができない。世に義人なし一人もなしとあるが、そのごとくに世に福者なし一人もなしと言い得る。人はすべて他人の幸福を羨む者であって、自身は真に幸福なりと信ずる者は一人もない。百万長者も富の不足を歎き、位人身を極むれば、これを譲るに足る子孫の無きを悲しむ。空の空なるかな、すべて空である。

しからば幸福なる人とは誰であるか。無位無官、身に属(つ)ける物とて一もなくとも、幸福なり得る人である。他に較べて幸福なるにあらずして、自分独りで幸福なり得る人である。

そして、神はかかる幸福を御自分を信ずる者に与え給う。単独の幸福と称して単独なるがゆえに幸福なるのではない。単独でいても幸福なり得るのである。世界の帝王となり、全世界の富を己が有となしても、この幸福は得られない。

神を信じて霊に充実して、人はこの世を離れて富み、かつ栄ゆる事ができる。私自身がこの幸福にあずかることができる。何人もあずかることができる。