内村鑑三 「力と真理」
内村鑑三「力と真理」
(明治三十八年九月十日『新希望』六十七号「精神」 署名・研究生 (全集十三巻)」
キリスト教は真理であって力である。力ある真理である。真の力である。力のない真理ではない。真でない力ではない。
兵力は力である。しかし、真の力ではない。哲学は真理である。しかし、霊魂を活かす真理ではない。キリスト教は、兵力や金力のような力ではないと同時に、また数学や哲学のような真理ではない。
キリスト教は神の力である。すべて信ずる者を救わんとの神の大能である。ゆえに、キリスト教は力ある真理であるというは、その真理そのものに力が存しているというのではない。これは、その真理に神の力が伴うということである。「神は愛なり」という真理そのものが力あるというのではない。これに似たる真理はキリスト教以外の宗教にもある。
しかながら、この真理が神が特別につかわしたまいし使者によって唱えらるる時に、これに非常の力が添うのである。力は真理以上にあるのである。こうして力が真理に添う時に、それが神の言(ことば)となりて、死せる霊魂を活きかえらしむるのである。
ゆえに、キリスト教をただ学んだとて、それでその教理より力を得ることはできない。哲学的にいくら深く研究しても、キリスト教は仏教・儒教等と多く異なるところはない。
キリスト教をしてその大効を奏せしめんと欲せば、これをその創設者なる神によって学ばなければならない。すなわち、キリスト教の真理と共に神の聖霊を仰がなければならない。キリスト教を活かすのも殺すのも、全く聖霊の力によるのである。
他の宗教が一定の時期を経過すれば必ず死にゆくに、キリスト教のみが年ごとに新たなるはなにゆえなるか。なにゆえに、古き聖書は歳と共に古びざるか。これはキリスト教の哲学的真理が完全無欠であるからであるか。そうとは思えない。
キリスト教の不朽なるは、神の不朽なるがゆえである。活きたる神が常にこれに伴い、その真理をもって人の心に働らきたもうからである。神なくして聖書もキリスト教も無能のものとなる。論語や孟子と多く異なるところのないものとなる。
しかしながら、神がいましたもう間は―そうして神がいましたまわない時とては未来永劫決してない― 聖書の真理がその活力を失う時はない。われらは神を信じつつ、キリスト教の真理を究めて、その救済にあずかるべきである。