内村鑑三の言葉

無教会主義や内村鑑三、キリスト教について

内村鑑三 「余の今日の祈願」

内村鑑三 「余の今日の祈願」

(明治三十八年九月十日『新希望』六十七号「精神」 署名・砕心生 (全集十三巻)」

 

神様、私は今は、あなた様の御祝福によりまして、何にも他に欲しくありません。金も欲しくありません。名誉も欲しくありません。人望も欲しくありません。学問も技芸も才能も欲しくありません。

私は今、ただあなた様の聖霊が欲しくあります。これを得て、あなたの深き情がわかり、人生の意味がわかり、死がこわくなくなり、来世が明白になり、善が自然と私の心より湧き出で、美が自然と私の身より輝くようになりたくあります。

私の欲しいものは、ただこればかりであります。すなわち、あなたの聖霊であります。これさえ賜われば、私は満足します。しかし、これがなければ、私は最も憐れなるものであります。

私はあなたに祈ります。汝の聖(きよ)き霊を我より取りたもうなかれ、と(詩篇 五十一篇十一節)。私はキリストの尊き御約束に頼ります。天にまします汝らの父は求むる者に聖霊を与えざらんか、と(ルカ伝 十一章十三節)。あなたは、この恩賜を私どもに約束したまいました。ゆえに、私はこれをあなたより得ずしては止みません。私はこれを得んために、祈祷をもってあなたの宝座に迫らんと思います。私は励みて天国を取らんとねがいます(マタイ伝 十一章十二節)。

これが私の祈祷の目的物であります。神の聖霊、神よ、私にこれを賜え。私の愛する者にこれを賜え。私の友人にこれを賜え。私どもに他の物を賜わずとも、このものを与えたまえ。

人がまず第一に求むべきものは、これであります。これを得んがためには何物を犠牲に供しても惜しくはありません。天国とは他でもありません、これであります。天国は畑に蔵(かく)れたる宝のごとし。人、見出さばこれを秘し、喜び帰り、その所有をことごとく売りて、その畑を買うなりと(マタイ伝 十三章四十四節)。

私には今は、この聖語の意味がよくわかります。私は蔵(かく)れたる宝を確かに見出したと思います。しかし、まだ全くこれを私の所有とすることができません。私は一度か二度、または数回これを見たばかりであります。しかし、まだ悲しいことには、これはまだ私の永久の所有としてはありません。

ゆえに神様、私は私の所有をことごとく売りても、この宝の蔵(かく)れてある畑を買うつもりであります。願わくは、この祈祷を充たしめたまいて、私をしてこの宝を懐いて永久に歓ぶことを得しめたまえ、アーメン。