内村鑑三の言葉

無教会主義や内村鑑三、キリスト教について

内村鑑三 「聖書大意」

 

内村鑑三 「聖書大意」

(一九二六年 十一月 『聖書之研究』)

 

 

「なんじのことばは真理(まこと)なり」(ヨハネ伝十七・十七)

「山いまだ生(な)り出でず、地と世界とを造りたまわざりし時、永遠より永遠までなんじは神なり」(詩篇九〇・二)

「天地はすたるべし、されどもわがことばはすたるべからず」(ルカ伝二一・三三)

 

聖書は六十六巻より成る。そのうち三十九巻が旧約であって、二十七巻が新約である。66と39と27とである。いずれも3をもって除することのできる数である。

ことに新約の27は3の三乗である。聖書にありては、3は聖数である。父、子、聖霊の三位がある。信、望、愛の三徳がある。聖なる、聖なる、聖なるかなと天使が三唱するを預言者は聞いた(イザヤ書六章)。すべてがそのとおりである。聖書の聖書たるゆえんは、その巻数においてもあらわれている。

 

聖書は創世記をもって始まり、黙示録をもって終っている。創世記は天地創造の記録、黙示録は天地完成の記録である。

「はじめに神、天地をつくりたまえり」というに始まりて、「われら新しき天と新しき地を見たり。さきの天とさきの地はすでにすぎたり、海もまたあることなし」というに終っている。すなわち永遠に始って永遠に終っている。

こんな偉大なる書はほかにない。国民史にあらず、世界史にあらず、宇宙史である。宇宙が成りし由来、その目的、その終極、これをしるしたものが聖書である。しかも泡のごとくにあらわれて泡のごとくに消えたというのでない。無よりいでて無に帰ったというのでない。ある確実なる目的をもって造られ、その目的が完成せられて終わったというのである。愛の神よりいでて神に帰ったというのである。

聖書は宇宙を取り扱う書であって、しかも恩恵的に取り扱う書である。無限的に偉大なればとて、曠空的に尨大(ぼうだい)でない。聖書は、アブラハムやヤコブの伝記をしるすように、宇宙の始終をしるしている。すなわち神の恩恵の目的物として宇宙と人生とを取り扱っている。荘厳かぎりなき、慈愛きわまりなき書である。

 

かくのごとき書は二つはない。論語がえらい、孟子がえらい、ダンテがえらい、シェイクスピアがえらいというて、とうてい聖書におよばない。他の書がことごとく消えて後に聖書がのこる。聖書は世界唯一の書である。

ジョン・ラボックという、英国の銀行家にして大天然学者が、世界の大著述百種をえらんで、その第一に聖書をおいた。聖書は古いからえらいのではない。えらいから古びないのである。

人類は大著述をして死なしめない。ゆえにほかの書はことごとく死にうせても、この書だけは死なない。そしてほかにどんな大著述が出ても、聖書と寿命をともにし得ようとは思われない。

今日までに聖書を攻撃した書はたくさんに出た。しかし、そのいずれもが朝露のごとくに消えうせて、聖書のみが残った。

 

詩人ハイネが聖書を読んで彼の感想を述べた有名の言がある。左のごとし。

「なんという書であるか。世界だけそれだけ広くかつ大きく、造化の根柢に根ざし、青空の密室にまでそびゆ。日の出と日の入りと、約束と成就と、生と死と、人類のすべての理想とはこの書の中にあり。」

詩あり、歌あり、哲学あり、歴史あり、伝記あり、預言あり、最大の思想、最高の理想、人のすべて思うところにすぐる悲しみとよろこび、すべてがこの書の中にある。

ゆえに他の書は読まずとも、この書だけは読まねばならぬ。この書を怠りて、人生最大のものを怠るのである。聖書知識にとぼしき教育は不完全なる教育である。

まことに聖書は「生命の書」である。この書を学ばざる人に生命なく、この書をしりぞくる国に生気がない。世界の歴史、偉人の伝記がことごとくこのことを語る。

 

聖書は人類の救済史である。神は人を救うにあたりて、哲学者や道徳家のごとくに倫理道徳をもってしたまわない。救済の事実をもってしたもう。まず個人を救い、しかるのちに社会国家を救い、ついに人類を救いたもう。

人類の救済は、アブラハムの救いをもって始まった。つぎに彼の家を救い、彼よりいでしユダヤ国を救い、ついに彼の裔(すえ)として生まれしイエス・キリストをもって、人類救済の道をそなえたもうた。

そして、その長い歴史を伝えたものが聖書である。聖書は神が人類を救いたもう事実とその順序を示した書である。倫理書にあらず、いわゆる経典にあらず、歴史である。神の聖業(みわざ)の記録である。それがゆえにことに貴重なるのである。考えて成った教えではない。おこなってできた救いの記録である。

人が新たに聖書を作る事のできない理由はここにある。聖書は儒教や仏教の経典とは全くその性質を異にする。聖人がいうたことばを伝えたものでない。神がその選びたまいし人と国との上にほどこしたまいし救いの記録である。

 

人類の救いにかかわる書であるがゆえに、人種民族の差別なく、読まれ、かつ消化せらるる書である。今日までにすでに五百以上の国語に訳された。

聖書を学んで人ははじめて世界人になる。西洋人の書でありまた東洋人の書である。南洋人の書でありまた北洋人の書である。われらは聖書を読んで、欧米人のみならず、世界万国民と理想をともにし、希望を一にする。この書を読んで、人は深くせられ、また広くせらるるのである。