内村鑑三の言葉

無教会主義や内村鑑三、キリスト教について

内村鑑三 「生命」

内村鑑三 「生命」
(明治三十八年七月十日『新希望』六十五号 内村鑑三全集第十三巻所収)

 

ヨハネ第一書 第一章
ヨハネ伝 第十一章 第二十四節

 

 生命とは何ぞや。歓喜の充実し、活力の充実せる、これなり。生きて活くること、これなり。これに反するものを死という。
けだし、キリスト教にいうところの生命とは、単に人の生存を意味するものにあらず。食い、飲み、しこうして生存するといえども、これに善をなさんとする計画なく、拡張的生涯の希望なく、ただどうかこうか生きておるがごとき、これパウロをしていわしむれば、すなわち死なり。
 救わるるとは何ぞや。死せざることなり。すなわち、生命の増殖なり。これをさらに換言すれば、無為の生涯を出でて、有為の生涯に入ることなり。生存に真の生命の意味が付与せらるることなり。永遠の生命に入ることなり。
 キリストとは誰ぞや。この生命の充満なり。充溢なり。人の彼に接するは、生命に触るるなり。仮に例をとれば、蓄電缶に触るるがごとし。これより電気を伝えられざらんとするも得ず。われ、まさに萎死せんとす。行きてキリストより生命を頒(わ)かたるるを要す。瞽者、彼によりて視、病者、彼に触れて癒え、死者、なお再び生きたり。これを奇跡というといえども、一つに生命の活力に他ならず。死は生命の欠乏なり。キリストの生命を頒(わか)ち与えられて、再び蘇生するは、むしろ理のしかるべきにあらずや。いわんや、病の癒え、跛の立つが如きや。
 伝道とは何ぞや。この生命力の宣伝なり。キリストに生命溢れ、人皆、これを享(う)くるの特権あり。男女の別なく、老幼の差なし。人のこれを享くるや、活きざるはなしといえども、これを享けざれば、すなわち死す。親、これによりて活きたるを得んか、これを子に与えずして忍びんや。子、これによりて活きたるを得んか、これを親に伝えずして忍びんや。自らこれを得たるに、友のこれなくして死しつつあるを看過するに忍びんや。
 熱心とは何ぞや。生命の親しくわれにありて活動することなり。自らこの活動を実験せるものは、毫も疑うことなく、躊躇することなくして働くなり。これ熱心なり。熱心少なきは生命を実験すること少なきがゆえなり。百の例あり、千の事実あるも、自ら実験せざるものに熱心あるなし。真誠の熱心は、ただ実験のよく生むところなり。