内村鑑三の言葉

無教会主義や内村鑑三、キリスト教について

内村鑑三 『罪と完全』

内村鑑三 『罪と完全』

(昭和四年三月十日 『聖書之研究』三百四十四号)

 

○ある教会信者に「君には罪の苦悶はないか」と尋ねたらば、彼は左のごとくに答えた。

人間は弱い者である。私は人間である。ゆえに私は弱くある。私が罪を犯すは当然である。

と。これを聞いて自分は思うた

「なるほど、そう言えば理窟は立つ。しかし、この人にキリストの福音を説くことはできない」と。

 

○しかし、自分の三段論法は少し違う。自分は左のごとくに言いたい。

人間は完全たるべく神に命ぜらる。自分は人間である。ゆえに自分は完全なるべき義務がある。自分は自分の犯したる罪の貴任を負わねばならぬ。

と。世に未だかつて罪を犯さざる人一人も無しといえども、その事は自分が甘んじて罪を犯すの理由とならない。

イエスは命じて言い給うた、「天に在す汝らの父の完(まった)きが如くに汝らも完くなるべし」と。完全は我ら各自の義務である。

もし、世に未だかつて完全なる人一人もありしこと無しといえども、自分は完全を求めねばならぬ。キルケゴード(※キェルケゴールのこと)が言いしが如く、「もしやむなくば、我れ自身が開闢以来の初めてのクリスチヤンたらん」である。

 

○かく言うは、決して無謀でもなく、また傲慢でもない。人たるの義務である。人は何人も完全なるべく全身の努力を揮(ふる)わねばならぬ。支那聖人すら言うた、

天子よりもって庶人に至る。一にこれ皆な身を修むるをもって本と為す

と。

身を修むとは君子となること、人らしき人、完全の人となることである。噴水はその源よりも高く昇ることあたわず。完全を目的とせざる人の生涯は知るべきのみである。

 

○神は人に自力で完全になるべく命じ給うたのでない。彼は我らにすべての援助を与え給う。彼はまず聖子をもって我らの罪を赦し給うた。しかる後に、聖霊を降して罪に勝つことを得しめ給う。その他すべての手段方法をもって、内よりまた外より、我らの完成を助け給う。そして「愛は律法を完成(まっとう)す」であって、完全なるの道は我らが思うよりも容易である。

 

○人間は弱い者、罪を犯す者、不完全なるが当然であると言い通すがゆえに、ますます不完全になるのである。教会は人類の全然堕落を唱えつつ憚らずして罪を犯し来った。神に頼りて完全にならんと欲して努力することが、完全に達するの第一歩である。神はたぶんこの神聖なる努力を完全の大部分として受けてくださるであろう。