内村鑑三の言葉

無教会主義や内村鑑三、キリスト教について

内村鑑三 「人生最大の獲物」

内村鑑三 「人生最大の獲物」

(昭和三年九月十日『聖書之研究』三百三十八号)

 

○神の恩寵をこの世の幸福、または成功において見るほど間違うたる見方はない。そう見るがゆえに、我らはたびたび神を疑い、彼を見失わんとするのである。

神が人に賜う最大の賜物は、幸福ではなくして聖霊である。聖霊によりて起る善心である。神と人とを愛し得る心である。いかなる境遇にあるも満足する心である。人のすべて思うところに過る平安である。

そして、これらは神が聖霊をもって、直に人に賜う恩恵の賜物であって、身の幸福または事業の成功を離れて、しかり、多くの場合においてはこれに反して、賜う賜物である。

幸福はありてもよく、無くてもよきものである。無くてならぬものは善心である。これさえあれば他は何が無くともよいのである。人生の目的は善心獲得にあり、と言うて可なりである。

 

善き心、これのみは貧富貴賎にかかわらず、何人たりといえども懐くことができる。これは人生の冠、最大の宝である。これのみを持って、他の物はことごとく残して、人はこの世を去りてかの世に到るのである。

そして人生最大の獲物たる善心を得んがためには、不幸は幸福に優り、失敗は成功に勝さる。人に蹂躙(ふみにじ)られて、その人のために祝福を祈り得るの心は、人の上に立ちて彼を睥睨するに勝さるの栄光である。失敗に耐え得る心は、成功に誇る心よりも遥かに貴くある。善き心はいかなる場合においても得ることができるが、順境においてよりも逆境において得ることが遥かに容易である。

それゆえに、我らはパウロと共にいう。

「しかのみならず、患難をも喜ぶ。そは患難は忍耐を生じ、忍耐は練達を生じ、練達は希望を生ずと知ればなり。希望は恥を来らせず、我らに賜いたる聖霊によりて、神の愛、我らに注げばなり」と(ロマ書 五章 四、五節)。

(※ 新共同訳:「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(「ローマの信徒への手紙」第五章三~五節))

 患難の結果として、聖霊により神の愛、我らに注ぐという。福(さいわ)いなるかな患難!これあるにもかかわらず、人は全体に患難を避けて幸福を追い求む。彼らが至上善の何たるかを知らないからである。

 

○人生の目的は善心(愛)を護るにありと解して、人生の意味がわかる。「最も大いなるものは愛なり」という。永生他なし、愛に生くる生涯である。悪意なき生涯である。自己を殺さんと欲する者のために祝福を祈り得る心である。

この心を得て人生を卒業したのである。それまでは何があっても、事業、学識、熱心、山を移すほどなる信仰ありといえども、卒業は未だしである。

いう、「大学の道は明徳を明かにするに在り……至善に止まるに在り」と。人生の目的として見るところにおいては、儒教キリスト教、共に異なるところはない。