内村鑑三の言葉

無教会主義や内村鑑三、キリスト教について

内村鑑三 「信仰の共同的維持」

内村鑑三 「信仰の共同的維持」

(大正六年 九月十日 『聖書之研究』第二百六号)

 

信仰は単独(ひとり)で維持することのできるものではない。その理由(わけ)は、信仰は自分一人のことでないからである。

信仰は神を信ずることである。しかして、神は万人の父である。ゆえに、彼を信じて彼に従いて、万人を愛せざるを得ないのである。

実(まこと)に、信仰を単独で維持するは、愛を単独で維持するがごとくに困難である。愛する相手が無くして愛は成立しない。そのごとく、信仰を行う目的物が無くして、信仰はこれを持続することができないのである。

実(まこと)に、信仰は愛の半面である。ゆえに、単独で在り得るものでない。神を信ずるというその事それ自身が、すでに共同親交の意味を通ずるのである。

 

世にもちろん単独で維持することのできる信仰が無いではない。単純なる哲学的または数学的真理に対する信仰は、これを単独で維持することができる。二に二を合すれば四なりとの真理は、単独で永久にこれを信ずることができる。

しかれども、道徳的または宗教的真理に対する信仰は、全然それと質(たち)が違うのである。神は愛なりと信じて、我は単独でその信仰を楽しむことはできない。愛は己れの利を求めざるなり、人の益を図るなりである。

神の愛なるを信じて我もまた彼に倣いて愛せざるを得ない。しこうして、愛はこれを施すに人を要するのである。

愛はこれを物に施して足りない。愛はこれを己れの如き人に施して始めて満足する。ここにおいてか、神を信ずるの信仰は、これを維持するに神の子供なる人を要するのである。我はわが信仰維持の必要に駆られて、我と情性を同じうする人を需(もと)むるのである。

 

かく言いて、余輩は「ゆえに、信者たる者は、その教籍を現在のある教会に置かざるべからず」とは言わない。現在の教会の多数は愛の団体ではない。野心の団合である。彼らは、政党が政権を己れが手に握らんと欲するがごとくに、教権を広く世に張らんとする。教会は、キリストの聖名(みな)を唱うるのほか、その精神においてこの世の政党と何の異なるところはない。

そのことは、彼らが憚らずして為すところを見て明らかである。彼らは、互いに相中傷する、排斥する、陥擠(※かんせい、人を罪におとし入れること)する。その教敵とあれば、これを追窮せざればやまない。多くの佞人と奸物とはその内に跋扈する。最も醜悪なる競争はその中に行われる。

しこうして、かかる団合の中に入りて、真の信仰は破壊せられざるを得ない。世に真信仰の稀なるところとて、現在(いま)の教会のごときは無いのである。

ゆえに、キリスト教国いたるところにおいて、多くの信仰に燃えたる信者、愛に熱したるキリスト者(クリスチャン)は、教会を去りて他に愛と信仰との活動を求むるのである。

 

しかしながら、言うまでもなく、教会とは元来かかるものではなかった。教会をkirche またはchurch と称うは、kuriakonすなわち「主の家」の意である。

すなわち、教会は元来キリストの家庭である。彼を家長として戴いたる、彼に贖われし者の愛の団欒である。世に楽しきものとて、実はクリヤコンすなわち主の家のごときは無いはずである。これはまことに地上の天国である。真信仰の活動地である。相互に愛して愛せられ、しこうしてまた、相共に父なる神に愛せられて彼を愛したてまつるところである。

 

聖詩人の歌いしがごとく、

 

視よ、兄弟相睦みて共に居るは

いかに善く、いかに楽しきかな、

首に濺(そそ)がれたる貴き香油、鬚に流れ、

アロンの鬚に流れて、その衣の裾に及ぶがごとく、

また、ヘルモンの露降りて

シオンの山に流がるるがごとし、

エホバは彼所(かしこ)に福祉(さいわい)をくだし、

窮(きわみ)なき生命を与え給う、

 

とのことを事実として実験することのできるところである(詩篇 百三十三)。

しこうして、かかるところは求めて得られざるにあらずである。信仰の兄弟姉妹相集まるところに、かかる聖所は実現するのである。

その所に上下智愚の差別は全然無いのである。その中にただ主イエス・キリストを崇むるの信仰があるのみである。しかして、兄弟相愛し相援けて、我らは我らの信仰のいちじるしく昇騰するを覚ゆるのである。万巻の書を読破しても得られざる大光明のわが胸裡に臨むを実験するのである。

聖霊は特別に信者が愛をもって集まるところに臨むのである。かかる場合における彼らの祈祷は、特別に聴かるるのである。今夏の家庭団欒会のごとき、その一例であったと思う。