内村鑑三の言葉

無教会主義や内村鑑三、キリスト教について

内村鑑三 「古き福音」

内村鑑三 「古き福音」

(大正六年 十月十日 『聖書之研究』第二百七号)

 

キリストはわがために、我に代りて死にたまえり。

神は彼に在りてわが罪を赦したまえり。

しこうして、わが救われし証拠として、彼は彼(キリスト)を甦らしたまえりと。

これ、新約聖書の明白に示すところであって、福音の真髄である。

我はキリストに真似て聖徒となるのではない。我は努力して我が救済を獲得するのではない。我は神に縋(すが)りてわが救済を哀求するのではない。

わが受くべき罰はすでに受けられ、わが科(とが)はすでに赦され、わが死はすでに取り除かれて、永生はすでにわがために備えられたのである。

他力仏教の言(ことば)をもっていうならば、

「願行は菩薩のところにはげみて、感果はわれらがところに成ず」るのである(安心決定)。

これ、天然の法則にもとりて、愛の奇跡である。われらは、すでに贖われたる世界に在るのである。

しこうして、信ずればその時、その贖い、その救いをわが有(もの)となすことができるのである。パウロ、ルーテル、親鸞等をして起(た)たしめしものは、この簡単にして深遠なる真理である。

「キリスト、わが罪のためにわたされ、また、わが義となられしがために甦えらされたり」とある。