内村鑑三の言葉

無教会主義や内村鑑三、キリスト教について

内村鑑三 「文化の基礎」

内村鑑三 「文化の基礎」 (大正十四年一月一日 『文化の基礎』五巻一号) ○ 文化の基礎は何であるか。政治であるか、経済であるか、文学であるか、芸術であるか。そうでないと思う。これらは文化の諸方面であって、その基礎でない。文化の基礎は文化を生む…

内村鑑三 『仏陀とキリスト』

内村鑑三 『仏陀とキリスト』(大正十五年四月五日)The Japan Christian Intelligencer. Vol. I, No. 2. 仏陀は月である。キリストは太陽である。仏陀は母である。キリストは父である。仏陀は慈悲である。キリストは義である。仏陀は自らを汚れなく清く保つ…

内村鑑三 「何人をも真似ず」

内村鑑三 「何人をも真似ず」 (大正十四年一月十日 『聖書之研究』第二百九十四号) 私は何人をも真似ない。アウガスチンをも、ルーテルをも、ノックスをも、ウェスレーをもムーデーをも、その他、過去現在の何人をも真似ない。 私は私自身である。神は私を…

内村鑑三 「私の愛国心について」

内村鑑三 「私の愛国心について」(大正十五年一月十日 『聖書之研究』第三百六号) ○ 私に愛国心があると思う。私は幾たびも思うた、日本人にして愛国心のない者はない、私がもっているだけの愛国心は日本人たる者は誰でももっていると。しかるに、事実は私…

内村鑑三 「信仰の共同的維持」

内村鑑三 「信仰の共同的維持」 (大正六年 九月十日 『聖書之研究』第二百六号) 信仰は単独(ひとり)で維持することのできるものではない。その理由(わけ)は、信仰は自分一人のことでないからである。 信仰は神を信ずることである。しかして、神は万人…

内村鑑三 「不断の努力」

内村鑑三 「不断の努力」 (大正六年 九月十日 『聖書之研究』第二百六号) 必ずしも大著述をなすに及ばない。小著述にて足る。我はわが見し真理を、明瞭簡単なる文字に綴りて、これを世に示すべきである。 必ずしも大事をなすに及ばない。小事にて充分であ…

内村鑑三 「古き福音」

内村鑑三 「古き福音」 (大正六年 十月十日 『聖書之研究』第二百七号) キリストはわがために、我に代りて死にたまえり。 神は彼に在りてわが罪を赦したまえり。 しこうして、わが救われし証拠として、彼は彼(キリスト)を甦らしたまえりと。 これ、新約聖…

内村鑑三 「トンネルを過ぎて」

内村鑑三 「トンネルを過ぎて」 (大正六年五月十日 『聖書之研究』第二百二号) 久しぶりにて甲信の地に遊び、笹子(ささご)・小仏(こぼとけ)等の大トンネルを通過して、死について思うところがあった。 すなわち、死は汽車に乗じてトンネルを過ぎるがご…

内村鑑三 「文字の排斥」

内村鑑三 「文字の排斥」 (大正六年五月十日 『聖書之研究』第二百二号) 今や宗教といえば、哲学というがごとく、思想である。しこうして、思想は文字である。文字は書籍である。ゆえに、修養は主に書を読むことである。伝道は主に書を作ることである。真…

内村鑑三 「患難の配布」

内村鑑三 「患難の配布」 (大正六年九月十日 『聖書之研究』第二百六号) 人々に臨む患難は種々様々である。しこうして各自に臨む患難は、その人にとり必要欠くべからざる患難である。彼を潔め、彼を錬(きた)え、彼をして神の前に立ちて完全なる者と成ら…

内村鑑三 「活ける神の要求」

内村鑑三 「活ける神の要求」 (大正六年九月十日 『聖書之研究』第二百六号) イスラエルの詩人はいうた、「わが霊魂(たましい)は渇けるごとくに神を慕う、活ける神をぞ慕う」と(詩篇 四二篇二節)。 我はわが生命の中心において、飢え渇くがごとくに神…

内村鑑三 「天然と神」

内村鑑三 「天然と神」 (大正九年 十二月十日 聖書之研究第二百四十五号) 太陽は神ではない。しかしながら、神は太陽をもって我らを照らし給いつつある。 水は神ではない。しかしながら、神は水をもって我らの汚穢(けがれ)を洗い給いつつある。 火は神で…

内村鑑三 「日本的キリスト教」

内村鑑三 「日本的キリスト教」 (大正九年十二月十日 聖書之研究第二百四十五号) 日本的キリスト教というは、日本に特別なるキリスト教ではない。 日本的キリスト教とは、日本人が外国の仲人を経ずして、直(じか)に神より受けたるキリスト教である。その…

内村鑑三 「三種の宗教」

内村鑑三 「三種の宗教」 (昭和五年二月十日 「聖書の研究」第三百五十五号) ○ 宗教に儀式的なると、倫理的なると、信仰的なるとの三種類がある。儀式的なるが最も低く、倫理的なるがその上であって、信仰的なるが最も高くある。 そして、儀式的が普通であ…

内村鑑三 「断片録」

内村鑑三 「断片録」 (昭和五年四月二十五日『聖書之研究』第三百五十七号) 「その一、いかにして世に勝つか」 ○ 人はいかにして世に勝ち得るか。天然を真の意味において征服し得るか。その道について教うるものは、ヨハネ第一書五章四、五節である。 「す…

内村鑑三 「マリヤの選択」

内村鑑三 「マリヤの選択」 (昭和五年一月十五日 『独立教報』第二百四号(内村鑑三述・牧野正路記)) ※ルカ伝第十章三十八節以下参照 ここに見るベタニヤの姉妹マリヤ、マルタの、主イエス接待の記事は、ひろく人口に膾炙された物語でありまして、何人もそ…

内村鑑三 「幸福の道」

内村鑑三 「幸福の道」 (昭和四年十月十日 『聖書之研究』第三百五十一号) ○ 幸福なるは至って容易である。心の中に人を愛すればよいのである。そうすればただちに幸福が得られる。 人に愛せらるることを待つに及ばない。愛せられざるに自分から進んで人を…

内村鑑三 「最大の奥義」

内村鑑三 「最大の奥義」(大正十二年六月十日 『聖書之研究』第二百七十五号) 奥義中の奥義は、悪に関する奥義である。悪が善を為すは、確実なる実験の事実である。しかれども、悪はそれがゆえに善なるにあらず。また、善はそれがゆえに悪なるにあらず。サ…

内村鑑三 「神の言(ことば)としての聖書」

内村鑑三 「神の言(ことば)としての聖書」 (大正十二年六月十日 『聖書之研究』第二百七十五号) 聖書は神の言(ことば)である。私はそのことを疑わない。しかしながら、いかなる意味において神のことばであるか。そのことを説明するの必要がある。 聖書…

内村鑑三 「力と真理」

内村鑑三「力と真理」 (明治三十八年九月十日『新希望』六十七号「精神」 署名・研究生 (全集十三巻)」 キリスト教は真理であって力である。力ある真理である。真の力である。力のない真理ではない。真でない力ではない。 兵力は力である。しかし、真の力…

内村鑑三 「余の今日の祈願」

内村鑑三 「余の今日の祈願」 (明治三十八年九月十日『新希望』六十七号「精神」 署名・砕心生 (全集十三巻)」 神様、私は今は、あなた様の御祝福によりまして、何にも他に欲しくありません。金も欲しくありません。名誉も欲しくありません。人望も欲しく…

内村鑑三 「聖書大意」

内村鑑三 「聖書大意」 (一九二六年 十一月 『聖書之研究』) 「なんじのことばは真理(まこと)なり」(ヨハネ伝十七・十七) 「山いまだ生(な)り出でず、地と世界とを造りたまわざりし時、永遠より永遠までなんじは神なり」(詩篇九〇・二) 「天地はすた…

内村鑑三 「平凡の道」

内村鑑三 「平凡の道」 (大正十二年一月十日 聖書之研究第二百七十号) 平凡に上等なると下等なるとがある。 下等なる平凡は、凡俗と万事を共にすることである。その中に勇敢なると高貴なることなく、何事も凡俗が為すがごとくに行う。これ、決して誉むべき…

内村鑑三 「伝道成功の秘訣」

内村鑑三 「伝道成功の秘訣」 (大正十二年一月十日 聖書之研究第二百七十号) 伝道成功の秘訣とて別にない。神の御言(みことば)なる聖書を説くことである。そうすれば、伝道の功は必ず挙がる。そうしないでいくら大挙伝道、倍加運動、社会事業と焦るとも…

内村鑑三 「生命」

内村鑑三 「生命」(明治三十八年七月十日『新希望』六十五号 内村鑑三全集第十三巻所収) ヨハネ第一書 第一章ヨハネ伝 第十一章 第二十四節 生命とは何ぞや。歓喜の充実し、活力の充実せる、これなり。生きて活くること、これなり。これに反するものを死と…

内村鑑三 「失望と希望(日本国の先途)」

内村鑑三 「失望と希望(日本国の先途)」 私共に取りましては愛すべき名とては天上天下唯(ただ)二つあるのみであります。 その一つはイエスでありまして、その他の者は日本であります。 これを英語でもうしますればその第一はJesusでありまして、その第二は…

内村鑑三 「万全の策」

内村鑑三 「万全の策」 「神その羽をもって汝を庇い給わん。汝その翼の下に隠れん、その真実は盾なり干なり」 (詩篇第九十一篇四節) 神の命を待てよ、然らば何事も行われん。 身を神に任かせよ、しからばすべての力は汝に加えられん。 汝は神の属(もの)に…

内村鑑三 「寒中の芽」

内村鑑三 「寒中の芽」 一、春 の 枝 に 花 あ り 夏 の 枝 に 葉 あ り 秋 の 枝 に 果 あ り 冬 の 枝 に 慰 め あ り 二、花 散 り て 後 に 葉 落 ち て 後 に 果 失 せ て 後 に 芽 は 枝 に 顕(あら) は る 三、ああ 憂い に 沈 む も の よ ああ不…

内村鑑三 「楽しき生涯 (韻なき紀律なき一片の真情)」

内村鑑三 「楽しき生涯 (韻なき紀律なき一片の真情)」 我の諂(へつら)ふべき人なし 我の組すべき党派なし 我の戴くべき僧侶なし 我の維持すべき爵位なし 我に事ふべきの神あり 我に愛すべきの国あり 我に救ふべきの人あり 我に養ふべきの父母と妻子あり 四…

内村鑑三 『罪と完全』

内村鑑三 『罪と完全』 (昭和四年三月十日 『聖書之研究』三百四十四号) ○ある教会信者に「君には罪の苦悶はないか」と尋ねたらば、彼は左のごとくに答えた。 人間は弱い者である。私は人間である。ゆえに私は弱くある。私が罪を犯すは当然である。 と。こ…