内村鑑三の言葉

無教会主義や内村鑑三、キリスト教について

内村鑑三 「トンネルを過ぎて」

内村鑑三 「トンネルを過ぎて」

(大正六年五月十日 『聖書之研究』第二百二号)

 

 久しぶりにて甲信の地に遊び、笹子(ささご)・小仏(こぼとけ)等の大トンネルを通過して、死について思うところがあった。

すなわち、死は汽車に乗じてトンネルを過ぎるがごときものであろう。真暗の中を過ぎること暫時にして、再び光明の天地に出ることであろう。しかも、より狭き天地より、より広き天地に出ることであろう。

もし、甲州の窪地が現世であるならば、関東の平野が来世であろう。しこうして、峡中を去って広原に入るに、その間に死のトンネルがあるのであろう。

しかり、死は暫時の暗黒である。入るかと思えば、直(ただち)に出るのである。

峡中に峡中の快楽なきにあらず。しかれども、広原の爽快は、これを山間に求むべからず。我(われ)、暫時の暗黒を忍びて、死のトンネルを過ぎて、かの地に至れば、宏大荘美なる天地のあるありて、その中に安住する数多の聖友の我を迎うる者があるのである。

死は生命の行き詰まりではない。新らしきより大いなる生命に通ずるトンネルである。

ゆえに、恐るべきものではない。歓ぶべきものである。

これを通過して彼方の光明に出でし時の愉快はいかばかりであろう。このことを思うて、わが心は躍立(おどりたつ)のである。

内村鑑三 「文字の排斥」

内村鑑三 「文字の排斥」

(大正六年五月十日 『聖書之研究』第二百二号)

 

今や宗教といえば、哲学というがごとく、思想である。しこうして、思想は文字である。文字は書籍である。ゆえに、修養は主に書を読むことである。伝道は主に書を作ることである。真理は主に書をもって伝えらると思わるるからである。

しかしながら、宗教は思想ではない。霊的生命である。

ゆえに、文字をもって伝えらるるものではない。信仰であり希望であり愛である宗教は、霊的努力をもって伝えらるるものである。

「人、もし彼(神)の聖意(みこころ)に従わんと欲せば、この教えの神より出づるか、また、我れ己れによりて言うなるかを知るべし」とあるがごとしである(ヨハネ伝 七章十一節)

考えてわかるのではない。行ってみてわかるのである。人を離れ、世を棄て、身を忘れてみて、神がわかるのである。

しかるに、今時(いま)の人のごとく、世を棄て得ず、教会を離れ得ずして、万巻の書を読むとも、キリスト教のABCすらわからないのである。

内村鑑三 「患難の配布」

内村鑑三 「患難の配布」

(大正六年九月十日 『聖書之研究』第二百六号)

 

人々に臨む患難は種々様々である。しこうして各自に臨む患難は、その人にとり必要欠くべからざる患難である。彼を潔め、彼を錬(きた)え、彼をして神の前に立ちて完全なる者と成らしむるために、ぜひとも臨まねばならぬ患難である。

かくのごとくにして、ある人は家庭の患難を要し、ある人は疾病の患難を要し、ある人は失恋の患難を要し、ある人は貧困の患難を要し、ある人は失敗落魄の患難を要するのである。

人各自の悩む疾病にしたがい、特殊の薬を要するがごとくに、各自の欠点を補うために、特殊の患難を要するのである。

患難は前世の報ではない。来世の準備である。

刑罰ではない。恩恵である。

我は我に臨む特殊の患難によりて楽しき神の国に入るべく磨かれ、また飾られ、完成(まっと)うせらるるのである。

しかれば、人は何人も彼に臨みし患難を感謝して受くべきである。これ無意味に彼に臨んだのではない。臨むの必要ありて臨んだのである。我らをしてしばらく苦難を受けし後に、キリストに在る窮(かぎり)なき栄(さかえ)に入らしめんために臨んだのである(ペテロ前書 五章十節)。

内村鑑三 「活ける神の要求」

内村鑑三 「活ける神の要求」

(大正六年九月十日 『聖書之研究』第二百六号)

 

イスラエルの詩人はいうた、「わが霊魂(たましい)は渇けるごとくに神を慕う、活ける神をぞ慕う」と(詩篇 四二篇二節)。

我はわが生命の中心において、飢え渇くがごとくに神を慕う、活ける神をぞ慕うと。

実にわが慕うところのものは、宇宙の真理ではない。人生の理想ではない。完全なる哲学ではない。崇高なる神学ではない。神である。活ける神である。

愛をもって我を励まし、能をもって我を助け得る神である。イサクがその父アブラハムに対せしがごとくに「父よ」と呼びかくれば答えて、「子よ我れここにあり」といいたまう活ける父なる神である(創世記 二十二章七節)。

 我は哲学的真理に厭き果てた。聖書の文字的解釈に倦み疲れた。我は、神を慕う。活ける神をぞ慕う。

しこうして、感謝す。かかる神のいましたもうことを。しこうして、また、彼の我が叫号(さけび)の声を聴きたもうことを。

今や人は人の敵であり、キリスト教世界は二箇の陣営に分かれ、一は他の殲滅を計りつつある。かかる時に際して「人の援助は空し」である(詩篇 六十篇十)。帝王も法王も、政府も教会も頼むに足らず。ひたすらに活ける神をぞ慕う。

内村鑑三 「天然と神」

内村鑑三 「天然と神」

大正九年 十二月十日 聖書之研究第二百四十五号)

 

太陽は神ではない。しかしながら、神は太陽をもって我らを照らし給いつつある。

水は神ではない。しかしながら、神は水をもって我らの汚穢(けがれ)を洗い給いつつある。

火は神ではない。しかしながら、神は火をもって我らの不潔を焼き尽し給いつつある。

天然は神ではない。しかしながら、神は天然をもって我らを支え、我らを養い、我らを護り、我らを教え導き給いつつある。

かくして、我らは天然に接し、天然の内に生存して、神に接し、神の御懐(おんふところ)の内に生存しつつあるのである。

まことに我らは我らの日常の生活において、「彼に頼りて生きまた動きまた在ることを得る」のである(行伝 十七章二八節)。

我らは天然に囲繞せられて地上に存在すればとて、神と離れて在るのではない。神がモーセに言い給いしが如くに、我らが立つこのところは聖きところである(出エジプト三章五)。

我らは、地の上に住みて、神の聖殿にいるのである。信仰の眼をもって見れば、地そのものが神の造り営めるところの基(もとい)ある京城(みやこ)である。

その意味において我らは千年期の到来をまつに及ばない。新らしきエルサレムの天より降り来るを望むに及ばない。今時(いま)、この地の上に在りてすでに業(すで)に神の京城(みやこ)に在るのである。

地をして天たらしめざるものは地ではない。我らのうちに宿る罪である。

罪を除かれて地そのものがすでに天である。花の野に咲くは神の微笑(えみ)である、露の朝日に輝くは、父の顔(かんばせ)である。風の枝を払うは、彼のささやきである。日毎の糧は彼の肉である。したたる果汁(しる)は彼の血である。

エホバはその聖殿に在(いま)したもう。しこうして、我らもまた彼につかえて、聖殿に在りて彼に仕えまつるのである。

内村鑑三 「日本的キリスト教」

内村鑑三 「日本的キリスト教

大正九年十二月十日 聖書之研究第二百四十五号)

 

日本的キリスト教というは、日本に特別なるキリスト教ではない。

日本的キリスト教とは、日本人が外国の仲人を経ずして、直(じか)に神より受けたるキリスト教である。その何たるかは一目瞭然である。

この意味において、ドイツ的キリスト教がある。英国的キリスト教がある。スコットランドキリスト教がある。米国的キリスト教がある。その他各国のキリスト教がある。

しこうして、またこの意味において、日本的キリスト教がなくてはならない。しかり、すでにあるのである。

「人のうちに霊魂のあるあり、全能者の気息これに聡明(さとり)を与う」とある(ヨブ記三十二章八節)。日本魂が全能者の気息に触れるところに、そのところに日本的キリスト教がある。

このキリスト教は自由である。独立である。独創的である。生産的である。真(まこと)のキリスト教は、すべてかくあらねばならない。

未だかつて他人の信仰によりて救われし人あるなし。しこうして、また他国の宗教によりて救わるる国あるべからずである。米国の宗教も英国の信仰も、よしその善の者たりといえども、日本を救うことはできない。

日本的キリスト教のみ、よく日本と日本人とを救うことができる。

内村鑑三 「三種の宗教」

内村鑑三 「三種の宗教」

(昭和五年二月十日 「聖書の研究」第三百五十五号)

 

○ 宗教に儀式的なると、倫理的なると、信仰的なるとの三種類がある。儀式的なるが最も低く、倫理的なるがその上であって、信仰的なるが最も高くある。

そして、儀式的が普通であるがゆえに、倫理的なるが最も高くあると思わるるが常である。今日のキリスト教学者が、キリスト教は倫理的宗教なりと唱えて、その優秀の宗教なるを主張するがその一例である。

しかしながら、倫理的なるが儀式的なるより高きがごとくに、信仰的なるは倫理的なるより高くある。キリスト教は最高道徳でない。贖罪教である。キリストにありて神が人類の罪を滅したまえる、その事実を示せる宗教である。

「汝ら我に倣え、しからば救われん」という宗教にあらず、「汝ら我を仰ぎみよ。しからば救われん」と教うる宗教である。信仰第一の宗教である。道徳はその次である。

ゆえに、キリスト教にありては、倫理的なるは堕落である。キリスト教が盛んなる時は、信仰的に盛んなる時である。

そして、それが倫理的に盛んなる時もまた、信仰的に盛んなる時である。キリスト教が倫理を目的とする時に信仰は衰え、倫理もまた衰えるのである。

 

○ 現代人の好むものは二つある、その一が芸術であって、その他のものが倫理である。

そして、キリスト教にありて、芸術を好む者はローマカトリック教に行き、倫理を愛する者はプロテスタント教に行く。カトリック教は芸術的崇拝であって、プロテスタント教は倫理的願望である。

しかれども、福音すなわち真のキリスト教は、キリストと彼が十字架に釘づけられしことである。キリスト信者の全部は、キリストと彼の十字架においてある。

彼の礼拝も道徳も、すべてここに完成(まっとう)されたのである。

ただキリスト、ただ十字架である。

そして、ただこれを信ずることである。現代人はその単純なるに堪えない。倫理学者はこれを迷信と同視する。

しかれども、信ずる者には、これ神の智慧また能力たるなりである。

 

○ 人がみずから神を求むる時に、彼は芸術的にまたは倫理的に彼に近づかんとする。

しかれども、神が人を求めたもう時に、人は信仰をもって神に到るより他に道がない。信仰は神が備えたまいし救いの道に己れを信(まか)すことである。

信仰に手段方法は何もない。ただ信ずである。信仰は美くしき儀式でもなければ、麗しき思想でもない。

自己の罪に目覚め、神の恩恵に牽(ひ)かれて、「起てわが父に往かん」といいて、彼の懐へと帰り往くことである。

神の恩恵に応ずる人の信仰、それが真のキリスト教である。

 

○ 病床中の主筆いう、今度私が死んだとして、私は私の絶筆としてこの端文を遺して恥としない。私が生き存(のこ)るならばこの信仰を繰り返すまでである。